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7月25日(号外)
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これは、12年前のトルコ旅行中のスケッチです。

約2ヶ月の一人旅の終盤に泊まった宿で、

旅のスケッチブックをベッドサイドに置き忘れたまま

市内へ食事に行った私が、部屋に帰ってくると、

素敵な飾りを(宿の方が)してくれていたのです。

宿の契約をする程度の語学力しかなかったので、

言葉は通じませんでしたが、きっと、

トルコの文化を見聞きしながらスケッチする異邦人に

好意をもってくれたのだと、私は思っています。

とても嬉しかった。

 

もちろん、彼らはイスラム教徒です。

習慣も違えば、考え方も随分異なるでしょう。

しかし、私はこうした経験を通して、

どこの国の人であろうと、宗教が違っても、

人間としての根本の感情や行動原理には

共通するところが多くあることを確信しています。

 

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古い絵日記21
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さて、私は、安倍総理の国際感覚と国家観をずいぶん奇妙なものだと思っています。

彼の著書を立ち読みすると、外国に旅行した時に、「どこから来たのですか」と尋ねられたら、

「私はコスモポリタンです」って答えるのはおかしい、という例をひいて「国家が大切だ」という結論を強引に導いているのですが、あまりにも奇妙な論理です。

なぜ「国」がなかったら、あとは「国際人」という枠組みに一気に飛躍してしまうのでしょうか。

まるで、今のユーロ圏の人が、アジアやアフリカを旅した時に「ユーロから来ました」というのはおかしい、と言っているようなものです。

それはおかしくて当たり前です。設問の立て方にそもそも無理があるのです。

ユーロ圏の人たちは、尋ねられれば「イギリスから」「スペインから」と答えるでしょう。さらにはもう少し詳しく「スコットランドから」とか「カタルーニャ」から、と

自分の故郷を特定するような紹介をしようとするでしょう。

 

何が言いたいのか、を簡単にまとめますと、自分の生れ育った環境に対する愛着は、どんな民族であれそれぞれ持っているのは当然です。

しかし、その環境を100%“国家”という枠組みにあてはめる彼の発想に賛同できないし、これからの国際社会へのビジョンの有無を疑うのです。

 

国家の枠組みを絶対視していくだけでは、これからの地球規模での人間活動に対応していけないと思うのです。

それぞれの国独自の言語や習慣を維持し、土地の特性をしかした農業や歴史的文化材の保存など、「国」に期待される役割は少なくありません。

しかし、ヨーロッパが試みているように、国という境界線をゆるめていくことで、助け合い、不毛な競争で無駄な対立や消耗を防ぐことも可能なはずです。

 

しかし安倍総理は「国」という境界線を緩める可能性を全く信じておらず、境界線の向こうの世界への関心もほとんど感じられません。

この感覚で外交なんてやられたら、世界から信頼を得ることはできないと思います。(アメリカは自国にとって便利な存在であるかぎり擁護するでしょうが)

それだけでも、彼がこの国のリーダーとして不適格だと、私は断言します。